- 2008年1月28日
- 梟
ミネルヴァの梟は木にとまっていた。
HPのMENTAL CLINIC OYAの左に梟がいます。遠慮勝ちに木にとまっています。これは、大阪市在住の友人W.Y.さんのデザインで、川崎市在住のS.K.さんの配色によるものです。
HPのMENTAL CLINIC OYAの左に梟がいます。遠慮勝ちに木にとまっています。これは、大阪市在住の友人W.Y.さんのデザインで、川崎市在住のS.K.さんの配色によるものです。
この言葉の意味を現時点では以下のように解釈しています。この言葉は「人生や社会の終末が近づいた時知恵が救いとなる」ということではなく、「物事の終わりになってやっと理屈ができて解釈可能になる」という哲学や人間の思惟・思考の限界を述べたものです。結局、「理屈を捏ねる前に行動するしかない」ということでしょうか?そのような一年であったと私は思っています。来年も良い年にしたいのですが、努力・研鑽・粘りあるのみです。行動の後に梟が飛翔するのです。
フクロウとかミミズクとか言われますが、それほど明確な区別はないようです。ミネルヴァでは知恵の象徴ですが、それほど知能は高くなく、カラスのほうが賢いそうです。梟の特徴は何と言ってもその風貌です。大きな目、鋭い嘴、丸みのある体系、頭を360度回転できること(頚椎の数が多いそうです)等、攻撃的でなく優しく賢いイメージがあります。森の番人としても静かに森を守ってくれているような気がします。
ヘーゲルの言いたかったことは、多様な解釈を許す余地はあるものの、「黄昏(物事や状況の終焉)になってやっと知恵や理屈(梟)が登場するということ」(哲学の悲観的側面)だったと思います。知恵があるから何かが出現するのではなく、何かの終わりになってやっと解釈が登場すると言う事です。チャレンジすることをせずに、理屈ばかり先走っても何も生まれません。何かを成し遂げるにはまずチャレンジです。旧態依然の社会に安住し、理屈は言うが何も行動しなければ何もうまれません。しかし、チャレンジ自体は合目的的で強い意思を持っていないと、唯の無謀な思いつきにしか過ぎません。
ヘーゲルの梟=哲学の意味が前記の解釈通り「ミネルヴァの…」の言葉に込められているとすれば、哲学の役割を否定するものではないものの、哲学の登場は物事の終局場面になります。行動が先で理屈は後から着いて来る、と言うことでしょうか? 現実の社会は演繹的な論理だけでは成り立たないことは解りますが、論理のすべてが後付けであるとも言えません。行動と理屈のバランス、難しいですね。
ヘーゲルの「法の哲学」によれば、哲学を梟に喩えています。「哲学=知恵は物事の終わりになってやっと物事を解釈・解説できる」との意味に解釈できます。「最終局面になってやっと哲学的な議論が出来る」と理解すれば、哲学は万能選手ではないということになります。いかがでしょうか?一方的な理解かもしれませんが。